暁鐘運気学〜ご挨拶〜
仰々しい程を御目こぼし頂き、私は自身が語る鐘運気学を「決断の運気学」と銘打っております。
運気学とは森羅万象の領域から、人生の法則を導かんとする広大無辺の学問であります。我が暁鐘運気学も原理的にはこれに従い、十二運気の流転によって事象を予知して参ります。
予知の精度は論理必然にして、それがゆえ反面、その法則の魅惑にのみ囚われれば、たちまち無意味なマニュアル統計に堕ちてしまうのも運気学です。
そうした陥りがちな尋常一様の基準から脱し、単なる方程式に独自の命を吹き込むことによって、運気の理を活きた人生哲学たらんとすれば、何より我々自身の意思を主軸に置かねはなりません。
運気学の源泉が人の叡智から発した経緯に鑑みても、それは自明であると推察致します。
ここで申します「意思」とは「決断」と同義です。
私は専ら、権謀術数渦巻く政治・経済の狭間に身を置いた者であります。
常に四方八方、アンテナを張り巡らせて動くべき世界に生きて参りました。
己を語れば汗顔の至りではございますが、私が持つ資質として、過去の節々、機を見るに敏であった事実にかけては偽り無く、これが有ったがゆえに生き残って来られたと自負も致すところでございます。
恐縮ながら皆様方にも「アノ折は本当に危なかった、アレはツイていたとしか…」など思い返すたび、冷や汗を流される体験がお有りと拝察申し上げます。
運気学の理に返っては「春夏秋冬に例えられる運気」が順次巡って参ります。
冬…雪解け…芽吹き…盛夏…秋風…然りです。
ですが、仮に冬眠すべき厳寒期に在ろうと、必ず「針の穴を通すほどの微細な幸運への抜け道」は潜んでおります。
そして逆もまた真なり、幸運であるはずの時期に「魔」が顔を覗かせます。
ところが思惑通り、論理の手法により「ソレ」を感得するのは至難で、多くは後付けに終わります。
まして機転を要する戦時の修羅場においては、更に難易度が増すのが現実であります。それを踏まえ尚も正解を察知する能力を可能ならしめようとするなら、結局それは無我にも共通する「何モノか?」に寄るしかなかろうと思います。
申すまでもなく寄る辺の発祥は「人それぞれ」の持ち分次第です。
私の場合であれば、日々の業務を乗り切ってきた経験値、あるいは、金銭至上主義(グローバリズム)への懐疑から歩んで参った山岳修験の体験かもしれません。
私は他者の人生に触れさせて頂くにあたり、私淑する陽明学の泰斗、安岡正篤先生に因んで運気学に「暁鐘」を冠しました。
願わくは永年求めて止まぬ深山の言霊が宿り、私の意思となって、逆境を照らす一筋の灯ともなれば幸いに存じます。
小峰泰斗